【教材研究こぼれ話】太政官制から内閣制度に変わる意味はあったか?

私は、公立高校で日本史を教えている。

 

このブログではその経験を生かして、勉強法や歴史のあれこれについてまとめている。

 

日本史の学習を進めている生徒や、日本史を専門としないが公立高校で日本史を頑張って教えている先生方はぜひ参考にして頂きたい。

 

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今日はタイトルにある、明治時代に整備された太政官制の廃止と、その後の内閣制度の整備がなぜなされることになったのか扱っていく。

 

まず、1867年(慶應3)に王政復古の大号令が出されたことを思い出してほしい。

 

これにより、幕府は滅亡し、朝廷のもとで有力な藩が共同して政治を行うことが目指されることになった。

 

(実は、ここにも大きな問題があるので、別の機会にまとめたいと思う。)

 

さて、王政復古の大号令により、明治新政府初の行政機関である、三職(さんしょく)が設置された(総裁・議定・参与)。

 

その後、中央集権国家の建設を目指す明治新政府は、政体書を公布し、アメリカの「三権分立」をならう形で、太政官制を導入したのである。

 

これは、古代の律令制の話に出てくる太政官制を真似ている。

狙って、そうしているのである。

 

古代(醍醐・村上天皇の延喜・天暦の治など)は、摂関や院、武士といった者たちから干渉を受けることがなく、天皇が自ら政治をとることができていた理想的な時代だとされていた。

 

こういった政治を、天皇親政」と呼ぶ。

 

版籍奉還の後、土地・人民が天皇に返還されたことで、天皇を中心とした国家形成がなされていったのである。

 

明治新政府は、幕府政治と決別し、天皇中心の国家建設に邁進した。

 

そして、廃藩置県直後には、さらなる中央集権化を目指し、三院制が導入された。

これにより、正院・右院・左院が設置されることとなる。

 

ただ、これも太政官制の亜種に過ぎない。

 

では、なぜここから「内閣制度」に転換するのか?

 

それは、国政(国の政治)を決定する者と、その決定したものを実行する者とが分離していたことが問題だったのである

 

太政官制において、国政を決定する者は大臣(左大臣・右大臣)と大納言、そして参議であった。

 

彼らは「正院」という最高機関を構成した。

 

しかし、実際に正院の決めた政策を実行するのは、関係省庁であった。

特に関係省庁の諸省長官と、対立することがしばしばであったのだ。

 

これは、内閣制度では起こらない問題なのである。

 

いまの内閣制度を想像してほしい。

 

どのような政治を行うのか話し合うのは、内閣総理大臣を中心とした内閣のメンバーであり、その政治を実行するのも、大臣を中心とした省庁であるはずだ。

 

このように、太政官制は国政の決定者と国政の執行者(政治をおこなう者)とが分離していたのが問題であり、そのため内閣制度の整備が目指されたのである

 

当然内閣制度の整備には、諸外国の政治制度を取り入れようとする単純な思惑もあったはずだが、上にまとめたような背景もあったことをぜひ知ってほしい。

 

暗記で終わってしまいがちな明治期の制度整備も、「なぜそうなったのであろう」と疑問を持つことで深い学びになっていく。

 

ぜひそのような学びのヒントとしてほしい。