【鎌倉殿の13人】なぜ大泉洋演じるムカつく源頼朝に東国武士は集まるのか?「武士」と「侍」の違いわかりますか?
私は、公立高校で日本史を教えている。
このブログではその経験を生かして、勉強法や歴史のあれこれについてまとめている。
日本史の学習を進めている生徒や、日本史を専門としないが高校で日本史を頑張って教えている先生方はぜひ参考にして頂きたい。
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現在放映中の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」
私も毎週見るのを楽しみにしている
ある程度歴史が好きな人にとっては、なぜこの俳優がその役を演じているのかということが見えてきて、ワクワクが止まらない。
(個人的には「りく(牧の方)」が宮沢りえさんなのがたまらない)
今回は、「なぜ頼朝は大泉洋で、あれほどまでにムカつくのか」、そして、「なぜあれほどムカつくのに東国武士は集まるのか」ということについてまとめていく。
私は授業で武士が登場すると、生徒にこのように発問する。
「英語で『武士』は何というだろうか」と
そうすると、「soldier」「warrior」といった単語があがる。
そして、「samurai」という答えも当然出してくれる。
一般に「武士」=「サムライ」ということが人口に膾炙している。
しかし、元々「武士」と「侍」は別の概念である。
「侍」は、古典単語で覚えたように、「侍り」と訓じ、核となる意味は「(貴人の側に)お仕えする」というものだ。
実は、「侍(サムライ)」もまた、本来は「貴人の側にお仕えする人」一般を指し、武士だけではなく、「文士」(実務官人)をも含意する。
それが、時代を経るごとに「武士」と同一のものとして考えられるようになっていったのである。
では、武士とは何なのか?
これには、膨大な研究史が存在しており、なかなか全てを語りつくすことは難しい。
詳しいことは以下の参考文献を参考にしてほしい。
簡単にいえば、武士とは、「武」というものを専らにする「芸能人」である。
そして、12世紀頃において、「武士」とは、「中下級の貴族」、そして先述の「侍」たちを指した。
「中下級の貴族」というのをもう少し難しくいうと、「四位・五位」という位階の者たちである。
では、「侍」はどうかというと、「六位」ぐらいの者たちである。
「三位以上」の者は、一般に「公卿」とも呼ばれ、「四位・五位」の官位の者とは言葉通り「格が違う」。
しかし、それ以上に大きな違いがあるのが、「五位以上」とそれ未満の差である。
「五位以上」になれば、はれて「貴族」の仲間入りだが、それ未満は「貴族」ではなく、特権も全然違う(わかりやすいものは「給料」)
なので、「侍」は「貴族」ではなく、特権においても劣る存在だといえる。
また、「四位・五位」ぐらいの武士のことを、研究においては「軍事貴族」と呼ぶ。
つまり、正真正銘の「武士」は、都暮らしの者たちなのである。
だから、いくら武装しようが「ごろつき」は「武士」とは呼べない。
さて、問題の頼朝の話に移っていこう。
まず、戦後の歴史学研究では、
貴族(古代的な者)VS武士(中世的な者)
という、構図を設定して歴史を叙述してきた。
平安時代に堕落した「貴族」を、あらたな領主層である田舎出身の「武士」が打倒していく。
この構図の理解は、現在にも大きな影響を及ぼしている。
(これを「マルクス史観」「発展史観」等と呼ぶ)
しかし、このような考えは通用しないことが明らかになったのである。
源頼朝を考えてほしい。
頼朝は、「河内源氏」という一族の者で、元をたどれば「清和天皇」に辿りつく。
天皇の子孫の時点で、血統は申し分ない。
位階も平治の乱(1159)の後には、従五位下となり「貴族」の仲間入りを果たしている。
では、東国武士たちは、どうであろうか?
「鎌倉殿の13人」でフォーカスされている「北条氏」で考えてみよう。
彼らの出自は、実ははっきりしないのだが、頼朝とともに挙兵した当時は「在庁官人」クラスであったと考えられている。
これは、「六位」クラスであり、「貴族」ではない。
いうなれば、「侍」クラスである。
(しかし、北条氏は都との関りがあり、ただの「ごろつき」とは異なる)
さて、多くの書籍において、頼朝の一族である「河内源氏」と東国の武士たちとは、先祖代々の主従関係を結んでおり、平氏の世に再び共に立ち上がったというような単純な説明もされる。
それ自体、全否定するつもりはない。
しかし、東国武士はもっと自分達の利益を考えていた。
東国現地の混乱を、自分達よりも身分の上の者を担ぐことで解決したい思惑があったのである。
それは同じ「侍」レベルではダメ、つまり、「東国武士」のなかの有力者ではダメなのである。
「貴族」であり、「天皇の血筋」という申し分ない家柄だからこそ、ムカつこうが何だろうが、「大泉洋」についていくのである。
そして、「貴族」VS「武士」という構図との決別を図るため、「武士」の中心にいる「貴族・頼朝」は「ムカつく」ように描かなくてならないのである。
かなり省略してしまった話もあるし、単純化した話もある。
だが、「鎌倉殿の13人」を楽しむため、さらには、日本史の勉強をしていくなかで役立ててほしい。
【教材研究こぼれ話】「国守と受領は同じですか?」鎌倉殿の13人「上総広常」から考える【質問回答】
私は、公立高校で日本史を教えている。
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今回は、「国守と受領は同じか」という問題について回答していく。
その前に、「国司と国守の違いは何か…?」という疑問を持っている人は、下の記事も参照してほしい。
さて、結論からいえば、「国守と受領は同じ人を指す場合もあれば、違う人を指す場合もある」というのが答えとなる。
そもそも「受領」とは何か?
8世紀頃から荘園が成立するようになり、9世紀頃には人頭税による税徴収が難しくなり、土地税の賦課が始まった。
このような地方政治の曲がり角であるこの頃、現地の政治を円滑に行うために、国司の一人は大幅な政治決定権を与えられ、徴税を一身に担うようになった。
これが、「受領」である。
このような背景のもと、「守・介・掾・目」のうち最上席者の「国守」のみが現地に残り、それ以外は任国に赴かなくなっていった。
当時、現地に赴任した最上席者の国司を「受領」と呼んだ。
また、現地に赴かなくなったその他の国司を「遥任国司」と呼んだ。
さらに、11世紀後半になると、受領すらも現地には赴かなくなり、代官である「目代」を派遣して、現地の政治を行わせるに至った。
さて、このような説明を前提に、「国守」が「受領」とならないケースを紹介したいと思う。
それは、「親王任国」と呼ばれる「常陸国」「上総国」「上野国」の場合である。
ここは、「国守」に「親王」が任命される国なのである。
これは名誉職であり、「太守」と呼ばれる。
そして、親王は現地には赴かないため、「介」が現地の最上席者となった。
現在大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放送されているが、佐藤浩市さんが演じている「上総広常」は、正式には「上総権介平広常」である。
「上総権介」とは、上総国現地のNO1ということをあらわしている。
このように、上記3カ国は、「介」が基本的に「受領」となる。
何気ない疑問から話は膨らんでいく。
疑問を持つことを大事に勉強を進めていこう。
【教材研究こぼれ話】墾田永年私財法によって「律令国家」の支配は動揺したの…?
私は、公立高校で日本史を教えている。
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さて、今日は中学生でも名前を知っている「墾田永年私財法」についてまとめていく。
私が授業をするときに生徒に問いかけるのは、「墾田永年私財法の発布によって『律令国家』は動揺したのか?」というものだ。
743年(天平15)に発布された墾田永年私財法は、人々に開墾した土地(墾田)の「私有」を永久に認めた法令として、安直に理解されている。
だが、このようなおおざっぱな理解だと、「公領」(国衙〈国司〉の支配する土地。現代的な表現をすれば「国有地」)が減り「私領」が増えるのであるから、国家の支配が弛緩したような印象を受けて当然であろう。
しかし、実際にはその逆なのである。
墾田永年私財法の内容を詳しくみていくと…
①身分・位階によって私有面積を制限する。
これは、大寺院(「初期荘園」では東大寺が有名であろう)や有力貴族が土地を独占しないように抑止されていたことが読み取れる。
②「開墾」には国司の許可が必要であった。
③輸租田であった(国から税がかけられる土地であった)。
②・③からは、「私有」を永久に許可しているといいながら、「律令国家支配」の枠組みに押し込められていることがわかる。
「開墾」した土地を政府が把握することは難しい。
しかし、国司の許可制にすれば、「国家が把握できている墾田」が増え、支配がしやすくなる。
また、「私有」を認めたとしても税金をとることを義務付けてさえいれば、国側はそこまで困らないのである。
この「私有地」なのに「税金がかかる」というところがなかなか感覚的に掴みづらい。
それまでは、月日がたつと頑張って耕作した土地は、政府に返還されてしまっていた。
(三世一身法が出された後は、「三世代」まで)
いくら頑張っても、「頑張り損」である。
しかし、「墾田永年私財法」によって私有が認められれば、自分達が頑張って少しでもよい土地にすればその見返りがある。
それだけでも、人々にとってみれば進歩だったし、「税」がかかるのは仕方のないことだった。
(もちろん、税がかからないに越したことはないので、かからないようにするため、大変な努力が始まるのだが…)
さて、まとめると、墾田永年私財法の発布は、「律令国家の動揺」を引き起こしたのではなく、唐から輸入した「律令」支配を「日本風」にアレンジしようとした努力の結晶なのであり、むしろ「律令国家」の支配が強くなったという見方ができるのである。
このように「墾田永年私財法」は様々な角度からの評価が可能なため、注意が必要だ。
ところで、この「墾田永年私財法」の発布により、「初期荘園」が成立していく。
それについては、別の記事に要点をまとめているので参考にしてほしい↓
【教材研究こぼれ話】世は荘園ブーム!?「初期庄園」とは何か?
私は、公立高校で日本史を教えている。
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日本史の学習を進めている生徒や、日本史を専門としないが高校で日本史を頑張って教えている先生方はぜひ参考にして頂きたい。
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今日は、多くの生徒がつまづく「荘園」について扱っていく。
あまり日本史に興味がない人にとっては驚きかもしれないが、近年「荘園」はちょっとしたブームなのだ。
最近、伊藤俊一氏の『荘園』(中央公論新社、2021年)が大変ヒットした。
また、それに後押しされる形なのか、「荘園」に関連した名著工藤敬一『荘園の人々』が復刊している。
日本史を受け持つ先生方だけでなく、受験生もぜひ読んでみてほしい著書である(特に前者は最近までの研究史を幅広くおさえている)。
なお、もっと専門的な研究史を知りたい方は↓を。
詳しい話は、これらの参考文献をぜひ活用して頂きたい。
さて、今回は「初期荘園」について要点をまとめていく。
まず、「初期荘園」が成立するきっかけは何であったか。
それは743年(天平15)に墾田永年私財法が発布されたことである。
この前には、三世一身の法(723年・養老7)が発布された。
だが、「三世」に限った「私有」は、人々の開墾(新しく田畠をひらくこと)意欲を削ぎ、失敗に終わった。
そのため、墾田永年私財法は、種々の条件付であったが、人々に「墾田」の永久の「私有」を認めたのである。
墾田永年私財法については、こちらの記事も参考に↓
このような背景をきっかけに成立した「初期荘園」は、後の中世以降に続いていく「荘園」と何が異なるのか。
まず、一つ目。
「初期荘園」を成立させていくにあたって、国司や郡司といった律令制の支配機構を頼ったことがあげられる。
当時、郡司といえば、地方の名士(有力者)であり、それを頼ることが必要だったのだ。
そして、二つ目。
「荘民」、つまり、荘園で暮らす人が存在せず、「浮浪」(重税のため、戸籍・計帳に登録されている土地から逃れている人)等の「賃租」(土地を貸付て徴収した賃料)で荘園の経営が行われたこと。
(なお、「浮浪」は収穫の一部を「賃租」にあて、他の収穫を自分のものにした)
そして、三点目。
一点目に関係して、律令の支配機構に依拠する形で経営をされていたため、律令制が変質し始めた10世紀ごろには、その姿が消えていったこと。
これらが「初期荘園」の要点となる。
ぜひ勉強の際に参考にして頂きたい。
【教材研究こぼれ話】「知行国制の説明に出てくる『国守』と『国司』は何が違うんですか?」【質問回答】
私は、公立高校で日本史を教えている。
このブログではその経験を生かして、勉強法や歴史のあれこれについてまとめている。
日本史の学習を進めている生徒や、日本史を専門としないが公立高校で日本史を頑張って教えている先生方はぜひ参考にして頂きたい。
今回は、「国司」と「国守」の違いについて説明していく。
まず、質問のなかにあった、「知行国制度」とは何か。
これは、11世紀の院政期ごろに出現した制度である。
律令制度が動揺していったこの頃、貴族たちへの給料問題が深刻化した。
それへの対応策として出現したのが、この知行国制度である。
院は、一国を支配する「知行国主」に有力貴族を任命し、有力貴族は、子弟や近親者をその国の「国守」を任じる権利を得た。
そして、そのような有力貴族は、任国からの収益を自分の収入源としたのである。
さて、今回問題となっているのは、「国司」と「国守」の違いである。
簡単にいえば、「国司」の方が大きい概念である。
すなわち、「国守」も「国司」である。
では、違いは何かというと、律令制度の「四等官制」を思い出す必要がある。
当時の各官司(役所)の幹部職員(役員)は、「カミ・スケ・ジョウ・サカン」の4つの階級が存在していた。
それぞれの職によって、あてられる漢字が違ったことは重要である。
そして、国司については・・・
守(カミ)・介(スケ)・掾(ジョウ)・目(サカン)
この4つの漢字があてられていた。
これでわかると思うが、「国守」とは、国司の最上位の階級の人物だということになる。
このように、既存の知識をしっかり理解した上で、通史をかためていこう。
【日本史B】「今年受験した大学の問題は復習したほうがいいの?」その答えは…
私は、公立高校で日本史を教えている。
このブログではその経験を生かして、勉強法や歴史のあれこれについてまとめている。
日本史の学習を進めている生徒や、日本史を専門としないが公立高校で日本史を頑張って教えている先生方はぜひ参考にして頂きたい。
今日は私立受験に挑戦しているみんなへメッセージを。
まず、できた・できなかったに関係なく、まずは現実を冷静に直視することがとても大切。
何ができていて、何ができていなかったのかを分析しよう。
なかには、「答えがないから、復習する気がおきない」と思っている人もいるかもしれない。
しかし、一番後悔することが何かといえば、
「○○大学(○○学部)を受けてわからなかった問題が、また出てしまった・・・」というものだとおもう。
これが起きると、テスト中にとてもテンパる。
なぜそんなことがわかるかといえば、実体験があるからだ。
私が受験生であったとき、A大学で「聚楽第」を漢字で書かせる問題が出たが、それをど忘れして、漢字で書くことができなかった。
試験がおわり、家に帰ると疲れてすぐに寝てしまった。
そのため試験の復習をせずに、次の日の試験を迎えてしまったのである。
次の日、B大学で日本史を解いていると、また「聚楽第」を漢字で答える問題に遭遇した。
このときの焦りは、忘れられない・・・
現実にこのようなことが起きるからこそ、復習はできるだけした方がよい。
今年の問題なので、当然答えがない可能性は高いが、教科書や資料集などをつかって復習することで、周辺知識の確認にもなるだろう。
もしどうしてもわからないのであれば、塾や予備校、学校の先生などをたよってもよい。
ただし、マニアックな問題は忘れてしまってよい!
これは覚えるだけ時間の無駄。
どうせ皆解けていないから、合否に全く影響しない。
基礎的な知識のもれがあったら、それを覚え直す。
この簡単な作業を、受験が終わるまで繰り返そう。
今週は雪がふりそう。
交通機関を使う人は、余裕をもって行動して。
応援しています。
がんばれ。
【教材研究こぼれ話】「荘園制の『作人』と『小作人』って何が違うんですか?」を考える【質問回答】
私は公立高校で日本史を教えている。
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日本史の学習を進めている生徒や、日本史を専門としないが高校で日本史を頑張って教えている先生方はぜひ参考にして頂きたい。
今日は生徒から質問あった内容についてまとめてみる。
「『作人』と『小作人』は、何が違うのか」
これはなかなか難しい質問である。
日本史が得意な生徒、あるいは、熱心に日本史の勉強に取り組んでいる生徒ほど、荘園制の沼にはまっていく。
この問題も、荘園制の研究史とも関連し、一筋縄ではいかない。
ここでは、「ざっくり」理解してもらうために、簡単に説明したいと思う。
前提として、古代~中世において「小作人」という言葉はあまり出てこない。
小作人は、荘園制の文脈において「下作人」「小百姓」として理解していこう。
さて、まずは「作人」について。
簡単に定義すれば、「作人とは、田畠を耕作する者」ということになる。
ただし、高校日本史においては、名主のもとで田畠を耕作するものを「作人」と呼ぶことが多い。
名主は、負名(田堵)の系譜を継ぐものだと理解しておこう。
負名(田堵)は、土地の所有権が弱いが、11世紀ごろに出現する「名主」は、土地への所有権が強いことが特徴である。
負名(田堵)は、土地を借りて(請け負って)耕作(土地経営)をしているにすぎない。
しかし、時代が流れるに従って、借りている土地をまるで自分のもののようにしていった。それを「所有権を強めた」と表現している。
その結果出現してくるのが、名主なのである
さて、名主は田畠の経営を行ったり、徴税を行ったりするのが仕事である。
そして、大規模な経営をする場合、自分1人ではやっていけないので、家族や「奴隷?」(後述)に手伝ってもらいながら、耕作をした。
または、土地を分割し、人に貸すことで土地を効率的に経営していこうと考えた。
このように土地を貸して、自分の代わりに耕作を行ってもらった人を「作人」と呼ぶのである。
作人は、土地を借りているので、名主に対して、賃料を支払った。
これを「加地子(かじし)」と呼ぶ。
つぎに、「小作人」とは何か。
はじめに述べたが、今日から荘園制の文脈においては、「小作人」ではなく下作人(げさくにん・したさくにん)・小百姓(こびゃくしょう)と言い換えて理解していこう。
では、定義をするとどうなるか。
下作人・小百姓とは、作人の土地を借りているものである。
つまり……
このように、重層的に連なっていると指摘できる。
さらに、下作人・小百姓に似た言葉に、「下人(げにん)・所従(しょじゅう)」というものがある。
下人・所従は、主人(名主)に対して隷属した存在だとされる。
基本的に、名主は自分の家族とともに土地経営を行ったが、それだけでは人員が足りないため、下人・所従という隷属した者(「奴隷」に近い。諸説あり)を家に住まわせ、土地を経営したのである。
下作人・小百姓は、土地を借りて経営している(「請作」という)ため、「隷属」しているわけではない。
彼らは確かに「弱小な農民」であったが、特定の名主に従属していたわけではなく、いくつのも名田の耕作をしており、比較的自由な「百性」であった。
非常にざっくりと、要点だけをまとめてみた。
勉強の助けになれば、幸いである。