鎌倉時代の「執権」と「得宗」は何が違うの?
まず、この疑問が出てくる背景には、
「執権」でもあり、「得宗」でもある人物が
鎌倉時代に存在することにある。
たとえば、蒙古襲来の際に活躍した北条時宗は、
執権でもあり、得宗でもある。
まず、執権とは何か?
執権とは、鎌倉幕府の公的な職制であり、
鎌倉将軍を補佐する存在である。
初代の執権は、北条時政だとされる。
時政の子息である北条義時の頃に起きた和田合戦で、
和田義盛に勝利し、
義時が侍所別当の地位を兼ねたことで、
執権の地位が確立されたとされる。
以後、北条氏がこの職を担っていく。
次に、「得宗」とは何か。
嫡流とは、言い換えれば「本家」のことだ。
教科書では「北条氏」と一つに括られて説明されることが多いが、
「伊豆北条氏」「大仏流北条氏」「金沢流北条氏」など
複数の系統が存在している。
わかりやすいのが、上にあげた「金沢流北条氏」で、
「金沢流北条氏」の系統であった。
このように、複数の系統のなかで、
嫡流に位置するのが「伊豆北条氏」で、
彼らの系統の一族を「得宗」という。
なお、数は少ないが、執権のなかには、
そういった存在は、
「執権ではあるが得宗ではない」と表現できる。
戦後、「寄生地主制」はなぜ解体された?
AIは私たちの救世主か?
現在、日本は労働人口が減少し、
どんどん貧しくなっている。
その救世主として注目されるのが、
AI(人工知能)である。
AIは新たな労働力として活躍し、
日本の成長待ったなし……
書いていて虚しくなるが、
もちろん、そんなに単純な話ではない。
確かに、AIは労働力を代替してくれる
可能性がある。
しかし、AIには代替できないものがある。
それは、「消費」である。
AIには、欲がないため、
減少する消費者としての側面を、
代替することができない。
人口減少が進むと、消費が落ち込み、
市場は縮小するしかないのだ。
さて、なぜ戦後「寄生地主制」解体したのか?
農作物の一部を小作料として徴収する形をとる。
小作料は、非常に高額で、農村で暮らす小作人にとって、
非常に大きな負担となった。
当たり前だが、多くの小作人は、非常に貧乏だったのだ。
生活が苦しければ、彼らは贅沢な暮らしができず、
消費活動も停滞する。
さて、国内の消費が低調ならどうする?
戦前の発想では、
「新たな消費地を獲得すればよい」
こう考えたのだ。
何を隠そう、これは帝国主義に他ならない。
これこそが「寄生地主制」が軍国主義の温床と考えられた理由であった。
戦後のGHQの改革で、寄生地主制をなぜ解体し農地改革を進めたのか。
そこにはこのような背景があったのである。
【2025年共通テスト歴史総合・日本史探求】私はこう考えた!これからの共通テストを考える1問!!
共通テストの実施前にこのような↓記事を書いた。
【共通テスト】歴史総合の明暗はいかに!? - 社会と教育を考える
結論から言えば、「歴史総合」の大問で世界史の知識がある程度ないと、解きづらい問題があった。
しかし、そのような問題が「多かった」かといえば、そうではなかったように思う。
だが、相当にインパクトはあったので、教育現場で「歴史総合」の授業の「知識偏重」の流れが来年以降加速していくように予測される。
さて、少し話を変え、今回は今年度の歴史総合分野の「とある問題」を扱ってみたいと思う。
「歴史総合・日本史探究」大問1問7(通し番号7)
松田さんは20世紀後半の時期に着目して、アメリカ合衆国を含む西側諸国とほかの地域との間の、人やモノの流れに影響与えた出来事を調べ、メモにまとめた。メモⅠ~Ⅲに書かれている出来事について、古いものから年代順に正しく配列したものを、後の①~⑥のうちから一つ選べ。
メモ1 チェコスロバキアでは、民主化をもとめる動きがワルシャワ条約機構軍の介入により挫折した。このことが、西側諸国への亡命者が増えるきっかけとなった。
メモ2 鄧小平が、「四つの現代化」を国家の基本方針として決定した。このことがアメリカ合衆国への留学や、企業の相互進出のきっかけとなった。
メモ3 カストロが、社会主義政権を樹立した。このことが、アメリカ合衆国に難民が流出するきっかけとなった。
【解説】
さて、共通テスト後、SNSなどで受験生の反応や勤務校の受験生の話を聞いているとこの問題の反響が大きかった。
「世界史の知識がここまで問われるとは…!」
このような反応が一番多かった。
しかし、私はこれとは違う感想を持った。
この問題は「歴史的思考力」を問う問題であったのではないかと。
なぜならば、選択肢には「プラハの春」(メモⅠの内容)や「キューバ革命」(メモⅢの内容)という歴史用語が書かれているのではなく、その「内容の説明」が書かれていたからである。
この3つのメモはいずれも冷戦に関係したものだ。
「冷戦」を簡単に整理すると、スタートは「アメリカVSソ連」でゴールは「ソ連の解体」なのである。
冷戦開始時は、社会主義陣営の力が強大であったが、「ゴール」に近づくにつれ、社会主義陣営の力が弱くなる。
これを念頭におけば、並びかえることは可能なのである。
例えば、「メモⅢ」では「カストロが、社会主義政権を樹立した」事実が書かれる。
ソ連が解体する頃に、新しく「社会主義政権」が樹立するとは考えづらく、どちらかといえば、米ソ冷戦がはじまった頃に近いと推測ができる。
また、「メモⅠ」では「西側諸国への亡命者が増えるきっかけ」とあり、社会主義勢力の「下り坂」を連想させる。
そして、「メモⅡ」では中国=社会主義国の「アメリカ合衆国への留学」「企業の相互進出のきっかけ」が説明され、これはどちらかといえば、ソ連の解体に近い頃の話だと推測できる。
そして答えはこの推測通りに並びかえた、⑤(メモⅢ→メモⅠ→メモⅡ)である、
このような「推測」は知識があるからできることではなく、論理的な思考によって、知識の不足している生徒であってもできうるものだと考えられる。
そのため、この問題を見て「知識が足りないぞ!!」と脅すだけでは、共通テストの作成者の意図を間違って受け取っているように思う。
(まあ、もちろん「知識」があれば簡単に判断できるという事実も無視できないのだが・・・)
授業の根底には、やはり「歴史的思考力」をいかにして養うのかということを置くべきだろう。改めてそのようなことを考えさせられた。
さて、今回は1問だけの考察であったが、個人的には今後の共通テストを考えるうえでも非常に示唆に富む問題であったと思う。
最後に批判的な意見を述べるならば…
やはり、「歴史総合」分野は「世界史受験者」の方が圧倒的に有利な問題であったということだ。
近年、世界史選択者が一層減ってきていることはよく耳にする。
そういった社会の流れをみての処置だったのかもしれないが、今年の日本史選択の受験生は災難だったように思う。
来年以降はどのようになっていくのだろうか…
意見がある人がいたらぜひコメントを頂きたい。
【共通テスト】歴史総合の明暗はいかに!?
共通テスト歴史総合が今後の歴史教育を左右する
共通テストが2025年1月18、19日に実施される。
新教育課程になって一発目の共通テスト
今年度、歴史総合がどのように出題されるかによって
今後の授業の方向性が変わってくる
現在の歴史総合の教科書は、
おそらく教科書内容全ての網羅を前提に作られていない。
テーマなどによって時代や地域を串刺しにすることが狙われていて
ある程度、授業者に裁量が与えられているようにも見える
だが、もし今年度のテストで、
資・史料の読み取りがメインではなく、
知識がなければとれない問題が多い場合、
嫌でも教育現場では知識を「詰め込む」方向に舵を切る
なぜなら、共通テストで問われた知識を授業で扱ってない場合、
間違いなく批判されてしまうからだ
かつて「現代社会」という科目が追加された際にも
同様の議論があったと、先輩の教員から聞いたことがある
このブログは共通テスト実施前に投稿している。
ここに書いた内容が杞憂で終わることを切に願う。
「歴史総合」を考える 〜歴史教育はどこにいく?〜
歴史教育の危機だ
私は公立高校の教員をしていて、
今年度は日本史を担当している。
まだ歴史総合の授業を担当していないが、
外野から歴史総合の授業の様子を見ていると非常に危うい教科であると感じる。
また、歴史を「探究する」という文科省の現在の方向性にも疑問を持っている。
史料に対して、様々な「解釈」を持っていい場合と
そうでない場合があるはずなのに、そこが大切にされていないのである。
生徒の解釈に対して「そういう考え方もあるよね!」と
教員が言ってしまうことに危険性はないのか?
「教室」という空間で歴史的な解釈が出来上がっていくことは、
今まで研究され「間違い」だとされてきたものが
再生産されてしまう可能性がある。
そこに研究史は存在しない。
この延長には「歴史修正主義」のような問題がある。
それを助長していく危険はないのか?
現在高校生がアクセスできる史料には限界がある。
大学のように、簡単に一次史料に辿り着かないことも多いだろう。
ネットで辿りつく史料、そして言説を元にした探究など、
実りあるものになるだろうか…
こういった問題を共有できる教員になかなか出会えていない。
これは私のアンテナやコミュニティにも問題があるかもしれないが…
歴史総合・日本史探究・世界史探究の授業実践を深めるとともに、
この問題意識を共有することも大事になっていくだろう。
【鎌倉殿の13人】なぜ大泉洋演じるムカつく源頼朝に東国武士は集まるのか?「武士」と「侍」の違いわかりますか?
私は、公立高校で日本史を教えている。
このブログではその経験を生かして、勉強法や歴史のあれこれについてまとめている。
日本史の学習を進めている生徒や、日本史を専門としないが高校で日本史を頑張って教えている先生方はぜひ参考にして頂きたい。
過去記事はこちら↓
現在放映中の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」
私も毎週見るのを楽しみにしている
ある程度歴史が好きな人にとっては、なぜこの俳優がその役を演じているのかということが見えてきて、ワクワクが止まらない。
(個人的には「りく(牧の方)」が宮沢りえさんなのがたまらない)
今回は、「なぜ頼朝は大泉洋で、あれほどまでにムカつくのか」、そして、「なぜあれほどムカつくのに東国武士は集まるのか」ということについてまとめていく。
私は授業で武士が登場すると、生徒にこのように発問する。
「英語で『武士』は何というだろうか」と
そうすると、「soldier」「warrior」といった単語があがる。
そして、「samurai」という答えも当然出してくれる。
一般に「武士」=「サムライ」ということが人口に膾炙している。
しかし、元々「武士」と「侍」は別の概念である。
「侍」は、古典単語で覚えたように、「侍り」と訓じ、核となる意味は「(貴人の側に)お仕えする」というものだ。
実は、「侍(サムライ)」もまた、本来は「貴人の側にお仕えする人」一般を指し、武士だけではなく、「文士」(実務官人)をも含意する。
それが、時代を経るごとに「武士」と同一のものとして考えられるようになっていったのである。
では、武士とは何なのか?
これには、膨大な研究史が存在しており、なかなか全てを語りつくすことは難しい。
詳しいことは以下の参考文献を参考にしてほしい。
簡単にいえば、武士とは、「武」というものを専らにする「芸能人」である。
そして、12世紀頃において、「武士」とは、「中下級の貴族」、そして先述の「侍」たちを指した。
「中下級の貴族」というのをもう少し難しくいうと、「四位・五位」という位階の者たちである。
では、「侍」はどうかというと、「六位」ぐらいの者たちである。
「三位以上」の者は、一般に「公卿」とも呼ばれ、「四位・五位」の官位の者とは言葉通り「格が違う」。
しかし、それ以上に大きな違いがあるのが、「五位以上」とそれ未満の差である。
「五位以上」になれば、はれて「貴族」の仲間入りだが、それ未満は「貴族」ではなく、特権も全然違う(わかりやすいものは「給料」)
なので、「侍」は「貴族」ではなく、特権においても劣る存在だといえる。
また、「四位・五位」ぐらいの武士のことを、研究においては「軍事貴族」と呼ぶ。
つまり、正真正銘の「武士」は、都暮らしの者たちなのである。
だから、いくら武装しようが「ごろつき」は「武士」とは呼べない。
さて、問題の頼朝の話に移っていこう。
まず、戦後の歴史学研究では、
貴族(古代的な者)VS武士(中世的な者)
という、構図を設定して歴史を叙述してきた。
平安時代に堕落した「貴族」を、あらたな領主層である田舎出身の「武士」が打倒していく。
この構図の理解は、現在にも大きな影響を及ぼしている。
(これを「マルクス史観」「発展史観」等と呼ぶ)
しかし、このような考えは通用しないことが明らかになったのである。
源頼朝を考えてほしい。
頼朝は、「河内源氏」という一族の者で、元をたどれば「清和天皇」に辿りつく。
天皇の子孫の時点で、血統は申し分ない。
位階も平治の乱(1159)の後には、従五位下となり「貴族」の仲間入りを果たしている。
では、東国武士たちは、どうであろうか?
「鎌倉殿の13人」でフォーカスされている「北条氏」で考えてみよう。
彼らの出自は、実ははっきりしないのだが、頼朝とともに挙兵した当時は「在庁官人」クラスであったと考えられている。
これは、「六位」クラスであり、「貴族」ではない。
いうなれば、「侍」クラスである。
(しかし、北条氏は都との関りがあり、ただの「ごろつき」とは異なる)
さて、多くの書籍において、頼朝の一族である「河内源氏」と東国の武士たちとは、先祖代々の主従関係を結んでおり、平氏の世に再び共に立ち上がったというような単純な説明もされる。
それ自体、全否定するつもりはない。
しかし、東国武士はもっと自分達の利益を考えていた。
東国現地の混乱を、自分達よりも身分の上の者を担ぐことで解決したい思惑があったのである。
それは同じ「侍」レベルではダメ、つまり、「東国武士」のなかの有力者ではダメなのである。
「貴族」であり、「天皇の血筋」という申し分ない家柄だからこそ、ムカつこうが何だろうが、「大泉洋」についていくのである。
そして、「貴族」VS「武士」という構図との決別を図るため、「武士」の中心にいる「貴族・頼朝」は「ムカつく」ように描かなくてならないのである。
かなり省略してしまった話もあるし、単純化した話もある。
だが、「鎌倉殿の13人」を楽しむため、さらには、日本史の勉強をしていくなかで役立ててほしい。
【教材研究こぼれ話】「国守と受領は同じですか?」鎌倉殿の13人「上総広常」から考える【質問回答】
私は、公立高校で日本史を教えている。
このブログではその経験を生かして、勉強法や歴史のあれこれについてまとめている。
日本史の学習を進めている生徒や、日本史を専門としないが高校で日本史を頑張って教えている先生方はぜひ参考にして頂きたい。
過去記事はこちら↓
今回は、「国守と受領は同じか」という問題について回答していく。
その前に、「国司と国守の違いは何か…?」という疑問を持っている人は、下の記事も参照してほしい。
さて、結論からいえば、「国守と受領は同じ人を指す場合もあれば、違う人を指す場合もある」というのが答えとなる。
そもそも「受領」とは何か?
8世紀頃から荘園が成立するようになり、9世紀頃には人頭税による税徴収が難しくなり、土地税の賦課が始まった。
このような地方政治の曲がり角であるこの頃、現地の政治を円滑に行うために、国司の一人は大幅な政治決定権を与えられ、徴税を一身に担うようになった。
これが、「受領」である。
このような背景のもと、「守・介・掾・目」のうち最上席者の「国守」のみが現地に残り、それ以外は任国に赴かなくなっていった。
当時、現地に赴任した最上席者の国司を「受領」と呼んだ。
また、現地に赴かなくなったその他の国司を「遥任国司」と呼んだ。
さらに、11世紀後半になると、受領すらも現地には赴かなくなり、代官である「目代」を派遣して、現地の政治を行わせるに至った。
さて、このような説明を前提に、「国守」が「受領」とならないケースを紹介したいと思う。
それは、「親王任国」と呼ばれる「常陸国」「上総国」「上野国」の場合である。
ここは、「国守」に「親王」が任命される国なのである。
これは名誉職であり、「太守」と呼ばれる。
そして、親王は現地には赴かないため、「介」が現地の最上席者となった。
現在大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放送されているが、佐藤浩市さんが演じている「上総広常」は、正式には「上総権介平広常」である。
「上総権介」とは、上総国現地のNO1ということをあらわしている。
このように、上記3カ国は、「介」が基本的に「受領」となる。
何気ない疑問から話は膨らんでいく。
疑問を持つことを大事に勉強を進めていこう。



